Symposiumシンポジウム

物質文明から精神文明へ生命科学振興会30周年記念の祝辞に代えて

慶應義塾大学名誉教授渡邊 格

<渡邊理事長>

始めに渡邊格先生のご紹介をさせていただきます。先生は1940年に東京大学理学部化学科をご卒業後、理化学研究所、東京文理大を経て東大理工学研究所助教授に就任されました。1995年にカルフォルニア大学ウイルス研究所に留学され、それ以後一貫して遺伝子、DNAの問題を研究されてまいりました。そして慶應義塾大学に、たぶん日本で最初だったと思いますが、分子生物学教室を開かれ、そこの主任教授となられました。

実は私も不肖の弟子として、1年間先生に教えをいただき、DNAを取り出したりした記憶がございます。外で「いのちを生きる」という本を売っておりますが、その冒頭に「相互変革を迫られる科学と社会」という先生の論文を載せております。これは今から25年も前に書かれたものですが、そこに書かれた予想が現在ことごとく実際に現れております。まさしく先駆的な慧眼をお持ちであると、敬服しているところであります。

それでは先生、よろしくお願いいたします。

渡邊 格先生ご講演

*物質から生命、さらに精神へ

生命科学振興会の30周年記念の会合に、まず、おめでとうと申し上げます。

私は、創立以前から初代理事長の松岡さんとは親しくしており、この会の創立当時から関わりを持っておりました。実は私は、戦時中は科学という蛸壺の中で、こそこそと物質の研究をしておりましたが、終戦後外に出てみますと、全くの焼け野原の向こうに富士山が見えるのですね。

そしてこの荒廃の中で日本をどうしていったらいいのかを考えざるを得なかったのです。それには物質の研究だけでなく、心の問題、人間とは何かという人間の正体を考える研究をしなければいけないと思ったのです。いやそれが自然科学の本当の目的ではないかと、一人、勝手に思ったわけです。

そして、物質の研究からウイルス、核酸の研究から生命の研究に入っていったわけです。その先は人間の正体を明らかにすることにある。精神……、といっても清らかなものではなく、むしろ我々のドロドロした欲望や争いを起こす原因は何かということを、宗教面からではなくて、自然科学の分野から明らかにしたいと思ったのです。そして「物質から生命、さらに精神へ」という標語を掲げて研究を始めたのです。

ところが、こういう発想を、科学者は誰もわかってくれなかった。それで、こういう発想を松岡さんにお話しして、この会との関わりも始まったのです。昭和60年1月に、この会の主催するライフサイエンスシンポジウムというのがヤクルト本社の会議室でありました。

そのとき私が総括役になったのですが、当時、日本の学者たちは非常に遅れていまして、自然科学者が「物質から生命、さらに精神へ」などという私のような主張をするのはおかしいと批判するような状況でした。このときが、私の考えを一般の方にお話しする、はじめての機会であったわけですが、当時は公害問題が表面化して、さまざまな問題が起こっていた時期でした。ですから、物質文明一辺倒の時代に、これからは精神文明の光を当てなければいけないのだという主張は、一般の人たちにとっては、非常に新鮮に受け取られたようでした。

物質科学と生命科学の間の壁は……、もっと言いますと生命科学の中の生物学ですが、物質現象と生命現象の間にあった壁は、DNAによって破られたのです。今年はワトソンとクリックによる遺伝子の二重らせんモデルの発見から50年になるのですが、これによって生物学は新しい段階に入り、物理、化学、あるいは工学を従え、人間の本態にまで迫るような新しい生物学が生まれたのです。しかし当時は日本の学者にはこれが理解できていなかったのです。

今やDNA時代と言われるようになって、ゲノム研究研究などが盛んになっていますが、これらの大半は、医療産業の立場として見られているのです。しかし、そうではなくて、DNAから解明される諸現象、DNAから発展する農学、生物学など、すべてが重要なものです。

私は稲のゲノムの研究に関係していますが、その次の物質から生命、生物の世界……、この生物の世界と我々は共存しなければいけないわけですが、それを超えて次は精神の世界、どろどろとした人間の心の問題に迫ってゆかなければならないのです。しかしその突破口はまだ見つかっていないのです。もっと言えば、日本ではそれを見つけようとする努力さえ、まだ行われているとは言えない状況にあるのです。これが自然科学の大きな問題だと思っています。

*DNA学が生命操作の技術を生む

ところで、このDNA学ができたおかげで、生物学は一変するわけですが、このときに人間がDNAで分かってくるということのほかに、生命を操作する技術ができてきたわけです。これが大きな問題を投げかけているのです。これは遺伝子組み替え食品と言ったレベルの話でなく、生命そのものを操作するという大きな問題なのです。たしかに、今まで助からなかった人が助かるというようなプラス面もあるけれど、反対の問題もあるわけです。

次の精神の問題、どろどろした心の問題が科学的に解明されてくると、当然その精神を操作する技術ができてくることになります。そうなった時にどうするか。それはあらかじめ考えておかなければならないことです。こういう生命操作の危険性とか、生命をめぐる世界の動向は、日本では一般国民には知らせる努力がされていないのです。それは学者自体が世界の動向を知っていないからです。

具体的な成果が出る前に、この学者はこういう研究をしているんだということを、一般の国民に知らせる必要がありますし、あるいはそういう研究を一時中止させる必要がある場合もあるでしょう。問題のある研究を止めるだけの良識ある社会ができているかといえば、現状ではできているとはとても言えないわけです。

現在の社会は、我々のどろどろした欲望に惑わされている社会であると言わざるをえないのです。自然科学研究、生命科学研究、精神科学研究では、それを止めなければならないような事態が起こりうるわけです。ですからそれを止める社会の方も、相応の考え方を持ってもらわなければならないのです。

*一番の課題は「自己の存在」

このように、心の問題、精神の問題が、自然科学では一番大きな課題であるわけです。なかなか、そこまで研究が進まないので、記憶の研究といったところが行われているわけです。しかし一番大きな問題は、宗教も含めて、「自己の存在」ということです。自己があってはじめて欲望が出てくるわけですが、はたして自己、「私」というものが存在するのかが究極の問題であるように思われます。

私の経験からすれば、どうも私というものは存在しないように思える。私と言う機械が勝手にしゃべっているのではないかと思えるのです。自己が本当にあるのか。自己というのは先天的にあるのではなく、後天的にでっち上げてきたものではないか、自己というものがあるということにして、やってきているのではないかと思えるのです。デカルトは「我思う、故に我あり」と言っていますが、我が先に出てきてそれが思うからそれがあるのだという論法はおかしい。

私は自己が存在するということで説明する方が楽だということで、そう説明しているだけではないかと考えているのです。
ともかく、自然科学が発展して生命現象が物質的に説明できるようになり、精神も同じように解明されてくれば、当然の帰着としてそれを操作できるようになるということが、最大の問題であるわけです。

日本ではまだ学者がこういう問題を十分に考えていないし、社会も分かっていない。私は未来社会がどうあるべきかということが先にあって、それによって自然科学が規制されるということが可能になると思うのです。そうでなければ、自然科学の研究を止めたり遅らせたりするようなコントロールはできないと思うのです。

未来社会をどうするかを問題にするには、現在の国際情勢をよく見なければいけない。世界中に戦争や紛争が起こっていますが、これらをどう見るか。従来の欧米中心ではどうにもならないのです。一般の人もそれぞれがこういう問題について考えてみなければいけなくなっていると思います。

「物質から生命へ、さらに精神へ」といった私の考え方は、学者に相手にしてもらえなかったのですが、現実はそういう方向に着々と進んでいるのです。そういう流れを日本の学者は怠慢にも関心を払わず、一般の人たちにも警告を与えていないのです。
生命科学振興会が、こういう問題を取り上げてゆく意味はそこにあると思うのです。

未来社会をどうするか、生命科学はどこに向かっているのか、そういう広い問題を生命科学振興会が今後とも取り上げていっていただくことを期待して、私のお祝いの言葉といたします。ありがとうございました。